浮かぶように
あなたは誰とも幸せになれない
そんな言葉を浴びせかけられたことを思い出した。馬鹿みたいな話だけど、もう数年が経った今でさえ、時折顔を出しては喉に刺さった魚の骨みたいに消化できずにいて、たまにひどく膿んだりする。なんかのドラマみたいで稀有な体験だなと思ってみたり、お前に何がわかるんだと憤ってみたりもするけど、こうかはいまひとつである。何様じゃんそんなわけないって笑ってくれた人もいたけど、それすら過去の人になってしまって、ある意味では信憑性を少し裏づけてしまったという結果である。
結局のところ、人は変われるんだろうか。それを突きつけるなにか言説や映画とか漫画のセリフに出会うと、いつもすこしギョッとする。という癖がいつの間にかついた気がする。
何事においても人と深く関わるというのは、自分が何某かの影響を受けるということであり、言い換えれば自分のなかに自分以外のなにかを見つけることだと言える。それは祝福するべきことであり、一方でとても歯痒くて、こそばゆいことである。
世間を見渡せば、変われないこと、新しい何かに踏み出せないことをもどかしく思う方が憂いとして人気があるような気がする。わかりやすくて劇的だし。(65歳で映画を撮り始める「海が走るエンドロール」というマンガは本当に面白いのでみんな読んでほしい。)でも気がつきにくいだけでその反対も、変わりたくないのに変わってしまうという憂いも多分沢山ある。例えば、女の子の前ではコンビニで少し愛想よくしてしまったり、名前も知らない偉い人にニコニコ挨拶したり、音楽で語りたいのに楽曲のことをこうやってつらつら書いたり等々。そのひとつひとつは些細なことだけれど、ふとその浅ましさに気がついて顔が強張る瞬間がある。
意図せずともさまざまな人に影響を受けて、またどれだけ肩を細めてごめんなさいちょっと通りますって生きていても影響を与えてしまって、自他の境界が少しずつ曖昧になっていく。そんな手に負えない、静かで曖昧な応酬の狭間で、飲まれないように浮き輪でも被ってぷかぷか浮かぶようにいられたらいいなと、最近はそう思うことが増えた。だって考えたって仕方ないからね。
というわけでそんな歌を書きました。題はそのまま「浮かぶように」です。なんか遣る瀬無いけど、まあそんなもんかってちっさなため息をついてまた歩き出すための力になれば幸いです。
いつか花になる
人生は発見に満ちている。
水をガブガブ飲んだあとにりんごジュースをひと口飲むと、りんごジュースをたらふく飲んだような気持ちになれるし、
ドリンクを飲んだあとに物凄い勢いで鼻をかむと、LUSHという石鹸屋さんの前を通ったときの匂いがする。
あるいは、久々に飯に行った友達がくれた何気ない一言で心根から救われた気持ちになって、こいつとの出会いはもしかしたら運命的ななにかだったのかもしれないと思ったり。
そんなわけで人生は発見に満ちているわけだけれど、最近のデカい発見は今回のジャケットのモチーフにもしている
「リュウゼツラン(竜舌蘭)」という植物に関してだった。
リュウゼツランという植物は何十年に一度しか花をつけないようで、開花させると地元の新聞で取り上げられるほど
珍しいものであるらしい。でも私がそれを知って写真を見たときに、まず思ったのは「これって花...?」だった。
なんというか、革靴を擦るときに使うアレを上向きにしたような見た目で、花というよりは剣山。色に関しても薔薇とか
みたいな派手なものではなくて、真っ黄色。綺麗かそうじゃないかでいえば綺麗なんだけれど、「花」としてはこれまで
出会ったことのない見た目をしていた。
そこからが私の発見で、よくよく考えてみれば、それを「花」と名前をつけていること自体が、非常に示唆的なことではないかと。植物学的な区分で花と言われているのか、綺麗だから花と言われてるのか詳細なところは定かじゃないけれど、きらびやかな他の花たちとは似ても似つかないフォルムのこれが花と呼ばれていて、そう呼ばれてるからみんな花だと
思っている。つまるところ、物と名前どちらが先にあったかはわからないし、名前が先行する可能性もある。
そんな風に、あることに対してどう捉えるか、なんと言葉をつけるかには、意外と想像力が介入する余地があって、
名前をつければそれになってしまうことだってあるのではないだろうか。
それなら、過去の間違いも正解も、そのどちらとも言い難いことも、名前をつけてなにかに変貌させられるなら、
花になればいいと私は思う。長くなったけれど、そんな願いを込めて曲を書きました。
「いつか花になる」よろしくお願いします。
ごくらくとんぼ
電車に運ばれていると、不思議な感覚に見舞われる。うまく言うのが難しいけれど、 自分の抜け殻だけが高速で
動いていて、中身はもとの場所に置いていかれるような感覚だ。 人間は意思をもって行動できる生き物だし、
一日に何万回もの膨大な数の判断を行っている、という有名な言説もあるけれど、本当の意味で自分のコントロール下に
あるものは 私の周りにどのくらいあるんだろうか、とたまに不安になる。
その意味でいえば、電車に乗って、椅子に座って、目を瞑ればあとは何が起ころうが私の思し召すところではなくて、私の意図からは車両のスピードで少しずつ遠ざかって、 その中心はここにないような倒錯が起きる。もし
そのまま宇宙へ昇ってリンドウを育てながら南十字に突進しても、目を丸くして、なんだこれ!?ってなる以外にない。 まあそんなアホみたいなことは起きないとしても、実はもっとアホみたいなことが世界にはあると私は思う。愛である。ちょっと突拍子もないことを言ってるかもしれないけど、 私が今回したいのはそういう話で、
つまるところ、愛ってのはどれだけ人の手元にあるんだろうという懸念だ。
そもそも愛っていう漠然とした、捉え所のない、触れもしなければ見えもしないものに 頭を抱えるのも変な話
だけれど、案外コンビニでも買えてしまったりするし、疑いようもなく眼前に現れる瞬間が確かにある。 だからこそみんながそれを知ってるし、ラブソングっていうのが世の中に溢れたりする。 そんなものは物質として存在しないし、全て錯覚によるもの、なんて言ってしまえば それまでだけど、それを始点に多くの変更が起こるならそれは
「ある」のと何も変わらないんじゃないか?と、バレンタインの中吊り広告を見ながら思ったり。
私はたぶん職業柄?というか気質的に愛とはなんぞと思考するのをやめられないのだけど、そのぐるぐるとした
思考を経由してどれだけ言葉を尽くそうと、それらを全て凌駕して、 私たちの意図みたいなものには一瞥もくれず、ただ「そこにある」ことが多々あると思う。
まあ結局のところそれが全てなんじゃないかと最近は思っているんだけど(この曲を書いたのはもう2年前だけど)、
それは愛だけに限ったことじゃなくて、例えば楽しいと思う前に楽しかったり、悲しいと思う前に悲しかったり、
幸せだと思う前に幸せに包まれていたりする。
「ごくらくとんぼ」のなかで「そんな感じ」とか「こんな感じ」って少し投げやりに言うのは、私たちの意図とは
少し違う部分で起こっていく、神秘的で些細なその奇跡を、 ただ当たり前に認めていたいという姿勢によるものだと思ってもらえれば、と思っている。
そんな風に、否応なく「そこにある」愛に、ふと自覚する瞬間を描ければいいと思って曲をつくりました。
皮肉をこめて「ごくらくとんぼ」と題をつけました。よろしくお願いします。
渦
「忘れる」っていうのは一体どういうことなんだろうかと考えることがたまにある。
昔は脳がPCみたいなもので、その中に何バイトかのファイルが保存されていて、時間と共に劣化していく、みたいな風に考えていたけど、それだと説明できないことが多すぎるので違うなーと今では思う。何よりそれが本当なら解明された暁には記憶の売買みたいなことが始まってしまいそうで怖い。(フィリップ・K・ディックじゃないけど)
この話は破茶滅茶に長くなるので大幅に端折ると、人間の記憶は似たものは似た場所に配置されるんだと思う。そして「忘れる」っていうのは、似たような記憶が積み重なっていくことで、その境界がぼやけていくことだと(勝手に)思っている。だからバイトの連勤をしたら最終日にしんどかったなーってなってもそれが今日なのか昨日なのか、はたまた別の日なのかが分からなくなって一日分くらい
得した気持ちになるし、逆にトラウマのような非日常的でショッキングな出来事は他の記憶から隔離された場所に保管されていて、何かの拍子で鮮明に思い出されてしまう。
今日も神戸は曇天だった。鈍行に乗りながら、友人に教えてもらったコンカフェっていう幸せ空間に行ってみたいなーとか、
また別の友人をちょっと心配したりとかしながら、しばらく前の個人的にすごくしんどかった日の曇り空も思い出していた。でもそのふたつの空は私の中で繋がっていて、きっと、ふと思い返した頃にそのどちらかは判別できなくなっている。これまでに見てきた沢山の曇天が網目状につながって、そのうちのひとつの大きさが相対的に少しずつ小さくなって、希釈されていくみたいなことが
「忘れる」ってことなんだろう。
かく言う私はかなり忘れっぽい方で(またそれをよく自覚していて)、これまでに今日のことはきっと覚えていようって誓うほどの素敵な日が何度かあったはずだけど今では全く思い出せない。でもそれは裏を返せば、それが希釈されて忘れてしまうほどのいいことがずっと起きていたということなので、もしそうだとすればそれはとっても素敵なことなんじゃないか?と思ったり。
長くなってしまったけれど、そんな気持ちで書いた「渦」がリリースとなりました。何卒よろしくお願いします。
ライカ
爪を真っ黒にした。
というのも、少し前に喫茶店で、真っ黒な爪でイカしたパーマを当ててる兄ちゃんをふと見かけて、それがあんまりかっこよかったために、あっさり感化されてしまったのだ。
もちろん、かなりイカついことをやろうとしていることはやる前から明白であったけれど(黒爪で思いあたるのなんてデスノートの
リュークくらいだし)それでもなんというか、自己顕示欲と自意識の葛藤の末、敢行に至った。
周りの反応は特に予想の範疇を越えなかったけれど、問題はその時の家族の反応だった。家族はおもむろに糾弾したり、揶揄したりすることはなかった。でも、その日の食卓にはなんとも言えぬ忌避感が漂っていた。言葉にせずとも、わかってしまったのだ。
その瞬間に起こっていた現象は、テレパシーとかそんなものではなく、平常と違う些細な事象の積み重ねが人間の精密な五感によって
かき集められ、わたしの脳内CPUが「忌避感」として結論を直接に弾き出したということなんだろう。
「言葉にせずとも分かり合える」というのはとても傲慢な態度だとは常々思っているけれど、ややもするとそれを裏付けてしまい
かねない出来事がしばしば起きる。
だからこそ、「大切なことは言葉にならない」としても挑み続けるしかないなと思う。
何はともあれ、そんな気持ちで書いた「ライカ」が結城佑莉史上初のラジオOAとなりました。
ありがたやーです。